相 続 開 始 NO4
相続人の確定 |
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相続人の範囲
A |
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B | 直系尊属(父母・祖父母等) |
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兄 弟 姉 妹 | 被相続人(死亡者) | 配 偶 者 | ||
(死亡していた場合) 代襲相続人(甥、姪まで) |
@ | (常に相続人) | ||
非嫡出子 (婚外の子) |
子 (養子、胎児を含む) |
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(死亡していた場合) 代襲相続人(孫、ひ孫 ・ ・と続く) |
T | 「相続を証する書面」(戸籍謄本・除籍謄本・原戸籍謄本等)により相続人を確定する。 |
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@ | 戸籍謄本を取寄せる際に、「戸籍の附表」(住所の変遷が記載されている)を一緒に取寄せるようにすれば住所の確認も同時にできます。 |
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A |
所在不明の人がいる場合は、「不在者財産管理人選任の手続き」。 |
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B |
生死不明の場合には、「失踪宣告の手続」。 |
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C | 常識的にみて生存可能性ない人が戸籍謄本にある場合は、「調査報告書」「誓約書」等を利用する。 |
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U | 特別受益者(生前贈与を受けた者等)、寄与者、内縁の妻、特別縁故者(遺言者と特別の縁故があった者(相続人が不存在の場合))等の存否確認する。 |
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ーー☆ Sakisaka Motoshi Office ☆ーー
行政書士 向坂元志事務所
TEL:FAX 042-621-6134
〒193-0823 東京都八王子市横川町918-13
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平成10年頃からの記事は省いた。
(平成15年3月号掲載)
当会(東行会(登山クラブ))においては、毎年2月頃に各所の「七福神巡り」をしてお清めするのが定番。
今回は、江戸川と中川に挟まれた葛飾区の柴又地域を中心にして寺院が散在する、「柴又七福神巡り」がターゲット。
京成柴又駅頭の「寅さん像」前に2月2日(日)10時に男女23人が参集した。
そこで手に入れた案内には、「七福神を参拝すれば“ご利益授かる”」とあるが・・・?
本日の散策コースは、京成柴又駅―@良観寺―A真勝院―B題経寺―C万福寺―D宝生院―E医王寺―F観蔵寺。
・・で、これに「温泉プラス酒」が加わる。
気温5度、曇天の中を“昔若者達”がざわめきながら歩き始める。
「二人堕ろした」と記された水子の供養札を眺める人、人一倍思いをこめて手を合わせる人、寺院の故事来歴の碑に見入る人等の参拝風景。そして道すがらお互いの胸の内を語り合う触れ合い。――これらの現象に遇うことは、ストレス発散に効あり。なぜなら、日常生活のお決まりパターンと違うからだ。
七寺院目の「観蔵寺」参拝後、希望者のみ「温泉・酒コース」に参加した。
新小岩方面へ40分ほど歩いたところに近々開業した“自称・天然温泉”「古代の湯」がある。送迎バスもあり時間無制限なので近い人にとっては「1日のんびり」するのに良いだろう。持ち込み禁止とあったが某さんが酒を取り出した。飲ませてももらったが、おおっぴらでなければ、おとがめはなかった。――私も参考にしよう♪
本日を振り返るに、「七福神巡り」のそぞろ歩きには、心を拡がらせる働きがあり、有意義な1日だった。
その翌日の胸の中―――
「それにつけても、“参拝のご利益”あるのかな?」
「「授かる」と案内にあったからあるかもしれないぞ!♪」
(平成15年7月号掲載)
山梨県に入ってまもなく、中央線南側に並行して走る山並みが見えてくる。その中にある「倉岳山(990m)」が今回の登山対象。
「鳥沢駅」にて下車。目の前には時を経た小さな駅舎があり、その左側の線路を隔てて遠くに目をやると、山々の上部3分の2は雲の中にある。この天気だと眺めはまず期待できまい。
7月6日(日)参加者11名。“昔若者達”といえども意気軒昂としていて、鼻息は「今若張り」。挑戦前はこんなものです。
案の定、登り始めてまもなく霧の樹林帯となる。そんな中を黙々と高度をかせぐ。気温は低めでも湿度が高いので暑苦しい。やっと12時過ぎに頂到着。
そこには富士が見えるとの案内あるがすべて霧の中。そのかわり「容姿のアラ?」が隠せて同行の輩はみな美男美女となる恩恵あり。記念写真が証明か。多少の酒と食材に会話が交じるがそれだけでなく、近くに、仲間以外で尺八を吹く粋人もおった。
さて、いよいよ下山だ。霧の中を下り、ガス帯から抜けて見通しがよくなったかなと思ったところで、林道に出た。後はひたすらこの途を駅に向う。
甲州街道へ出たところに、無人駅があった。「梁川駅」だ。誰かの「今度ここへ来るとき、キセルしちゃダメだよ」の声。 ・・わかって・・いるよ・・。
最後に。山行に参加することにより気分転換が図られストレス解消。その上業務上の疑問解消も、もたらされるご利益があるので、参加してください。知人、家族ともOKです。(
(平成15年12月号掲載)
「武甲山(秩父嶽)」―その名からして、いかめしくかっこいい。
その由来は、「兜(甲)」を伏せた山容からきているとか。有史以来、秩父地方の人々にとって「おらが国さの山」として、親しまれてきた。ところが近代化の波をかぶってその姿をすっかり変えてしまった。石灰石の採掘を長年続けてきたためだ。
「西武秩父駅」1つ手前の「横瀬駅」に降り立つ。セメント工場の施設が目に入る。11月2日(日)晴れ、男女12名でこの山に挑む。眺めの中に紅葉を探したが見当たらない。すでに盛りは過ぎたのか?そんな中、おしゃべりを交わしながら登る。これが又楽しい。ゆえに、そのせいかいつのまにか高度をかせげた。
まもなく開けた平坦地が現れ、古い社が2〜3棟。そのすぐ裏手に頂(1295mだが、採掘前は1,336m)があった。
そこには長大な鉄柵。覗いてみると―――ザックリ削り取られた北側が、足元からスッパリと直角に切れ落ちている。はるか真下に工事用車両が点々。目を上に移せば、秩父の街並みの拡がり。犠牲になった山の姿がここにあった・・。そのてっぺんに我々は座り昼食をとる・・。
大休止後、先に発った仲間に遅れまいと残留の3人も下りはじめる。下がりきったところに沢と言ってもおかしくない細い流れの「橋立川」。途中、札所28番の「橋立寺」と「鍾乳洞」あり。見学せず、後ろ髪ひかれる思いで先を急ぐ。「浦山口駅」の改札口に着く。・・と、同時に― 先発隊を発見― 電車が入る― 飛び乗ってセーフ。
途中、「飯能駅」で数人下車し、カンパーイ!(八王子支部 向坂元志9
(平成16年3月号掲載)
本年は「浅草七福神」がターゲット。江戸時代から有名だったとのこと。事前にネットで検索したところ、なんとそうそうたる故事来歴ある社寺だらけ。
2月8日(日)快晴、地下鉄
階段を上がって外に出ると浅草寺入口の大提灯。賑わいの中の参道をいく。配布された地図を見るってーと、浅草寺を南端として直系2キロの円状のルート上に9社寺が点在しておる。
反時計回りに3〜4時間の歩程とか。ぐるーっと巡って元んとこに戻り、一風呂浴びよーってー、算段だ。
@浅草寺に沿うようにA浅草神社へ。境内での猿使い興行見物もほどほどに、次のB待乳山聖天に向かうあたりから人込みから開放される。北端にある石浜神社に向かい、隅田川に沿って北上する。
ここから西に進路を変え、花魁、太夫も拝したF吉原神社から、日本武尊ゆかりのG鷲神社へ。そこから南下してH矢先神社に。ここには江戸期に「通し矢」がなされた三十三間堂があったとか。
これで終いとなり「浅草観音温泉」の湯船に沈む。風呂上りに「ニュー浅草」で一杯。
9ヶ所参拝の「9倍ご利益」を期待して乾杯!!――― 欲張りだと無理か?!?
(平成16年6月号掲載)
朝出発時の空模様は、ポツリポツリだった。
どうも梅雨の気配がするが、梅雨入り予報では数日後となっている。「このぶんなら心配あるまい・・」との気持ちで参加したが、現地へついたら本降りになっていた。
6月6日(日)、参加者10名の老若男女。箱根前衛の山「明星ヶ岳」に登らんと意気高く小田急線の「新松田駅」に下り立つ。改札を出たら早速の雨で気持ちが萎える。が、気を取り直してバスに乗り登山口に向かう。
開創から600有余年たつと伝わるバス停、曹洞宗「大雄山最乗寺」が登山口。バスを下りる直前に傘を広げる必要ありの、本格的なドシャ降りとなり、登山意欲は失せて境内めぐりに変更となる。
ズボンをまくりあげ、傘を差しながらの境内山林めぐり。当初、たいしたことない寺だろうと、思っていたがその規模の大なること――30あまりの堂塔が老杉の中に鎮座す。「天狗の高下駄」見物をはじめ、「奥の院」へ向かう350段の階段を登るなど適度に見所があって時を過ごした。
本堂前の池畔際にある屋根だけの堂の中でいつもより早い昼食をとる。池の蛙声がなぜか郷愁を誘い懐かしい。
帰路のバス車中での運動部帰りの女子高生との華やいだ交歓や、道中におけるほかの団体とのふれあい等々、心和むものがあった。これらは家にいては味わえないものだ。過去、参拝してきた「ご利益」の一つかな・・? いや、まだある。死後に、「天国」の方へお導きしてくれることも。
新松田あたりには適当な湯どころが無いため、途中下車して「鶴巻温泉」にて「雨中ごくろうさま酒宴」を開催。
――― 帰宅後、「梅雨入り初日」との報に接した。
皆勤を 祈りて高尾 初登り
(平成17年2月号掲載)
当会の「新年会」を高尾山山頂(599m)わきの小屋風の食堂で行い、下山がてら、「初詣で」するのが年明け山行の恒例行事だ。その席上で、昨年1年間の実績により皆勤賞、精勤賞および感謝状などを該当者に授与するのも同様。
1月9日(日)10時、快晴のもと京王線
食堂においては新年の挨拶のあと授与式に移った。皆勤賞は江戸川のK先生、精勤賞は板橋のSさん、そして感謝状はダブル受賞でK先生。なにしろ3年間36回参加とは恐れ入る。それ以前も参加回数ダントツNO1の地位は動かない。その上、毎回必ずみなに写真を贈られるという無償行為が感謝状授与の対象。それからのワイワイがやがやと、とりとめのない会話を交えた酒宴がなんとも楽しい。それに情報交歓もできて有益。
「これからも体の続く限り山の気に触れて〈思い出作り〉をしていこう」との総意を胸に、山を下りはじめる。途中、薬王院ほか社殿に1万円札とはいかないがなにがしかの賽銭を投じ、思いを念じた。ご利益ありや? あれや!
JR
椿の実 ここでまた咲け 過疎の島
(平成17年9月号掲載)
五月晴れの下、一泊二日で伊豆大島の三原山登山に挑戦した。雄大な山容と風土の香りを満喫した旅だった。
5月4日、朝7時に竹芝桟橋に男性7名、女性4名の計11名が参集した。行きは大島まで1時間半強で結ぶ超高速ジェット船。帰りは大型客船で4時間乗船。
飛行艇さながら、船体を浮上させて風を切る超高速ジェット船は、スピードを上げて東京湾を南下した。時速で言えば80キロでるとか。
岡田港に出迎えてくれた宿の車で元町から三原山山頂口まで行き、そこからいよいよ登攀開始。外輪山の一角に立ち前方を眺めると、広大な平原のはるか先に内輪山がどっしりと構えていて、全体の山容は想像していた以上に雄大だった。そこで最初の記念写真をとる。19年前に大爆発があった際に湧出した溶岩の中をたどって内輪山の一角にある三原神社に到着した。ここから火口縁をたどるお鉢めぐりに入る。途中、強風に煽られたが無事一周して三原神社にもどり昼食となる。
元町にある民宿「大陣」が今日の宿。夕食では、会長のいつもの上手な口音頭に乗せられにぎやかな宴となる。
5日は、「火山博物館」→「ぱれ・らめーる館」を見学してから、昼食→乗船の予定だ。
宿から徒歩で街なかの大通りを南下して「火山博物館」へ向かう。かっての観光力が今は失せたさびしい街並みを行く。その街並みの中に際立って立派な建造物がここ。火山に係わる情報を満載した資料がよく整い、飽きがこなかった。
次に訪れた「ぱれ・らめーる館」。和訳で「貝の宮殿」とか。ここも優れものの収集資料のオンパレード。“造形の神様、それは貝”の感がした。昼食後、「為朝神社」を参拝。この地に流され、戦に敗れて割腹した将を悼んだ社とのこと。
乗船準備に入るため宿の車で岡田港へ。
埠頭に現れた和服姿の「椿娘」4人とともに記念写真を撮る。乗船後、デッキで椿娘達とテープの別れで、チョッピリ旅情の味。
出港後は甲板で海を見ながらの会話と酒と仮眠で船旅を満喫した。
時間の経過とともに、夕日と離着陸する飛行機、そして湾内の夜景へと移って行く海上の大舞台。それを讃えるシンフォニーが、空間に満ちてくるような幻想を抱いた。着岸し、そのまんま陸に上がる。(八王子支部 向坂元志9
七福神 さぶいさぶいと 堂の中
(平成18年3月号掲載)
今年の2月は、「亀戸七福神」がターゲット。毎年2月に七福神巡りをするのが「東行会」のおきまり行事。覚えているだけでも、越生、青梅、柴又、日野、浅草、深川、そして今回の亀戸と詣でてきたので、かなりの福徳を溜め込んでいるはず。もうそろそろ現れてくださいな。
案内によると亀戸の地名由来は、昔、亀に似た形の小島だったところからきているとはおどろき。四辺、波間漂うその中に、向島が北に、大島が南に、そして柳島が西に眺められ、その他島と付く地名の小島が点々と海上に浮かんでいたとは。水害・水難除けの水神様が亀戸にあるのも道理だ。
2月4日(土)、快晴で日差し強いといえども、寒さ身にしむ中、亀戸駅の北口改札口に男女合わせて19名参集。詣で終われば全員善男善女に化身するはず。
10時過ぎ、案内を片手に歩き始めた。一番目の「常光寺」に向かう途中に「亀戸水神」があり、最初のお賽銭を投じた。次々と参拝したが、ご開帳の日ではなかったのでご神体は堂の中。堂越しでもご利益には変わりあるまいとひたすら拝みまわった。
昔、将門の乱のとき、俵藤太が戦勝祈願したと伝わる「香取神社」、歌人の伊藤左千夫の墓がある「普門院」、疫病大流行を鎮めるために織田信長が流鏑馬の行事をしたという「天祖神社」、江戸の粋人が中秋に遊覧したおりに詠んだ俳句を刻んだ石碑群がある「龍眼寺(はぎ寺)」等、由緒ある六寺社をめぐり終えて菅原道眞公を祀る「亀戸天神」にはやばやと12時に到着。寺社相互間が近接しているため、早く巡り終えた。
今年の冬はことさら寒い。そんなわけで亀戸天神内の散策もそこそこに、銭湯に向かおうとしたが営業時間まで時間がありすぎてアウト。しかたなく近くの食堂にて鍋焼きうどんをさかなに熱燗で一杯。その結果、みな恵比寿顔になってご帰還あそばした。
寒い中、皆様ごくろうさまでした。参拝したのできっといいことありますよ。
いいことなくても、悪いことありませんよ!
入日射し いろどり綾なす 積乱雲
(平成18年9月号掲載)
今年の夏の山旅は、中央アルプスの木曽駒ヶ岳(2956m)。そこは天竜川に沿った飯田線と木曽川に沿った中央線に挟まれた山域だ。普通に登ったら2泊かかるところをロープウエイ利用で1泊に短縮するプランを採用。
8月3日、新宿発23時51分の指定席付き列車に参加者12名が乗車し、翌4日の3時過ぎに塩尻駅着。2時間弱待合室で仮眠したあと再び乗車し、辰野経由で9時前に飯田線
眼前には、まぶしい青空の中に峨々たる岩壁を擁した宝剣岳(2931m)が天を突く。その山腹をまくようにして登り、稜線の鞍部に出て昼食となったあと、宝剣岳山頂への往復アタックを敢行。途中くさり場が何ヶ所かあり肝を冷やしたが、全員無事戻ることができて安堵する。頂の祠に10円を投じたご利益か。安いもんだ。
午後3時頃に木曽駒ヶ岳山頂着。頂には駒ケ岳神社あり。石囲いの壁の中に小さな社が鎮座する。なんとなく拝んだ。そこから本日の宿である「頂上木曽小屋」に行き荷を降ろす。それから間もなく、持ち込んだ酒・肴で宴会をしたがすぐ酔ってしまいなぜかあまり飲めなかった。
そのあと山小屋から出てみたら、眼前に、夕日に映えた雲々の刻々と移り変わる色彩の妙が展開。全天にわたるドラマティックな自然の演出だ。宿泊客の感嘆の声がそこかしこ。そんなわけで満ちた気持ちを胸にして床に就いた。
翌5日の行程は、桂小場というところまで長丁場の稜線沿い下りとなる。標高が高いとはいえじりつく太陽の下、当初の登山道は岩だらけの道を行く。途中、大正2年8月に地元の小学生達11人が、遭難死した時のいわれを刻んだ巨岩の遭難記念碑あり。この事件をもとにした小説が新田次郎著「聖職の碑(いしぶみ)」とか。合掌。
途中、西駒山荘あたりでタクシー会社に電話して帰りの足を3台確保した。ここから樹林帯に入り急な下りとなる。黙々と歩き黙々と下ったが、やっとこさ桂小場に着いたら先行した8人はタクシー2台に分乗して先に行ったとか。菊地会長を交えた我々4人もそのあとを追い岡谷まで直行する。途中、この前の大雨被害で大々的に報じられた、天竜川の氾濫により崩された堤防および切断された鉄塔をまのあたりに見たのは思いのほかで、なんともはや。
岡谷で乗車した特急自由席に4人はバラバラになりながらも辛くも席を確保した。早速、来し方の様を反芻しながら残った焼酎を静かに飲んで酔った。何事も無く全うできた安らぎ・・。 天気の神様ありがとう(八王子支部 向坂元志)。
本年も 全員無事で 誤算無し
(平成19年1月号掲載)
12月2日(土)9時、冷気に包まれた「高尾山口駅」前に14名が参集。本日のコースは「高尾山→城山→温泉→相模湖駅」。
朝、会合した際にするお決まり行為を記録しておこう。それは、川上先生から参加者個々に対する写真の無償提供、そして全員輪になっての自己紹介と人員確認の点呼がそれだ。本日はこれに加え菊地当会〃長から「前月は雨のため本行事がない月に初めてなった。本会始まって以来のことだ。」との発言あり。
予定していた「稲荷山コース」は工事のため通行禁止になっていたので、沢沿いの「びわ滝コース」に変更。
高尾山頂から登下降ある道をたどり城山に至り昼食をとる。その際、茶屋の主人から「五本松」という湯どころの紹介を受けたので本日の落ち着き処に決定。
小仏峠まで行き相模湖側に下る。途中、携帯で「五本松」に予約を入れたところ、「本日は他の予約でいっぱいです」と断られた。すわ大変と思い、「親分に替わります」と言い、携帯を菊地会長に渡した。すると間もなく、電話の向こうの反応が好転して「どうぞ」とのこと。さすが長年の業務で鍛えられた交渉術が功を奏したのだろう、たいしたものだ!・・と、そのときは思った。
山の中に「割烹」との看板を掲げた「五本松」がポツンとあった。風呂に入ったあと、手持ちの酒つまみを宿の料理に添え、カンパーイ! 話に花が咲き、宴が盛り上がった。 1時間くらいたった頃、突然宿側から「予約客の準備の都合上お開きにしてもらいたい」との注文が入った。水を注された感があったが中止とし、宿の車で相模湖駅まで。
飲み足らない5人は、駅前の「かどや」で延長忘年会。
そのとき出た話が、「予約の電話を入れた際、『親分に替わります』の“親分”の二文字が、宿側に受け入れ承諾させる功を奏したのだろう。酒宴時に宿の主人とその息子が渋い顔をしていたのは、『それとおぼしきコワモテのお方かも。粗相なきよう。』と思って予約を受け入れてしまった誤算に対してではないのか」で、大笑い。
本年も 思い出作りに 励みましょう
(平成19年2月号掲載)
1月6日〜8日、日本列島を上下に挟んだ爆弾低気圧が通過し、北日本を中心に荒れまくった。
毎年、「東行会」の1月行事は、恒例の新年会を高尾山頂わきの「やまびこ茶屋」で開催するのが定番。
おきまりの新年行事の進行プログラムを紹介しよう――――。
まずは、菊地会長の挨拶から始まり、次に、昨年12回にわたって行われた当会行事への参加状況等を勘案した表彰授与が行われた。
皆勤賞は二人。毎年受賞の江戸川の川上さんと、今回初受賞の八王子の向坂がそれ。精勤賞に板橋の松任さんと、新宿の西村功さんの両名。感謝状は江戸川の川上さんが皆勤賞とともにダブル受賞。 菊地会長からじきじきに表彰状と記念品を 授かった。続いて、大先輩の松任さんの乾杯の音頭で酒宴が花開く。
過去の行事の思い出、人の思い出、今年の行事に対する抱負などを織り交ぜた会話が飛び交い、酒宴は盛り上がる。 「この行事に参加することが私の生きがいの一つになっている」なんてーことを、のたまわった人もいた。さもあらん!――「山登りは健康の基」。「じゃー、山登りをしていなければ今頃は生きていないかも?」なんて、悪ふざけを言う輩もあらわれる始末。
帰路はいくつかの寺社に参拝をしたあと、今回はケーブルカーを利用して山を下った。雨の中、歩いて下りる気が起きなかったからだ。
それでも、しっかりと、JR
出発進行! 今年もこの会を通じて、思い出作りに励みましょう!
余生行く 芽吹く木の間の 富士おしや
(平成19年6月号掲載)
会員の一部に希望があった三ツ峠1泊ハイクを5月の連休に挙行。2日間とも天気に恵まれ、明峰富士を終始眺めながらの贅沢な山旅だった。
5月4日(金)、新宿8:14発のホリデー快速1号にて河口湖駅までの直行便に乗車。駅からバスに乗りかえ、バス停「三つ峠登山口」に下車したのが男性9名、女性3名の12名。
一息入れてから歩き始め、途中昼食をとってから山頂を目指した。
頂(1785m)からの富士は、多少霞がかかっているとはいえ6合目以上が冠雪した美しい姿を見せてくれた。
「三ツ峠小屋」に14時前に到着。小屋前からの眺めはピカ一。左にロッククライミングのゲレンデとして名高い屏風岩、右に丹沢山塊を経て富士にいたる山並みが望め、眼下には河口湖とその街並みを擁す。
夕食の18時半までの無聊は、酒宴における馬鹿ばなしと情報交換、そして富士を目の前にした酔狂な散策で消化できた。
夕食後は酔いと疲れで睡魔が襲い、全員20時ころに就寝。
あくる日、篠田さんから聞いた話だと、夜中の1時頃1人で外へ出たところ、月の光に照らされた富士が、息を呑むほど凄絶な色彩を帯びていたという。うらやますぃ―↑。
翌朝、頂が朝日に染まった富士の峰と有明の月のデュエットが、われわれ写真家もどき連を満足させてくれた。
小屋発7時半。天水温泉めざし南下し、木無山から西に分岐した道をたどる。
下るにつれ気温が上がるのは山の定め。3月初旬から5月初めにかけた樹相が、山の上から下まで移ろい変わる。途中、芽吹いた木々の向こうに清澄な富士の姿あり――あと何回拝めることやら・・。
「母の白滝」→「河口浅間神社」を経、「天水温泉」で1浴した。
東行会30周年を祝し全員乾杯。今後も、円満な進展継続を祈ります。
秋の山 ホームステイも 共に愛で
(平成19年11月号掲載)
今月の山は、武蔵五日市の西にそびえる三頭山(1527m)。10月6日(土)、朝日射す武蔵五日市の駅頭に参集したのは、外国人を含めた21名という大所帯。外国人とは、アメリカ、カナダ、スイス等の国籍で、男4人、女1人の構成。本会一会員の知人宅等に分宿しているホームステイ資格者とのこと。
バスにて「数馬」まで秋川を西進し、数馬でバスを乗りかえ登山口の「都民の森入り口」(948m)着。
定番である自己紹介の後、山頂めざして登り始めた。例年だと途中から沢沿いの道を登るが、台風による路面崩落のため遡行できず、三頭大滝を経たのち尾根伝いの道を行く。
途中、アメリカ人の1人が「日本はどこへ行っても緑が多くて素晴らしい。ただし、一部地域を除いては。」とのこと。気になる一部地域とはビル、人家が密集した平地のことか。彼のお国の住まいからは、遠くアパラチア山脈の長い山並みが、かすかに青く帯びて見えるとのこと。
13時頃頂上着で昼食とする。頂からは、奥多摩湖の一端を下にして雲取山まで続く山並みが望め懐かしい。
下山路は東にとり、鞘口峠を経由し、「森林館」→「都民の森入り口」へと辿る。
数馬のバス乗りかえ場所で温泉コース組は帰還組と決別し、「数馬の湯」に向かう。一浴し、休憩室で一杯となる。山の疲れが酒の酔いを開放的にさせ、言わなくてもいい事を言わせちゃうところが、又いい。
八王子支部 向坂元志
世を覆う うそ隠しだて 山紅葉
(平成20年1月号掲載)
12月8日(土)9時、周りの里山の紅葉が朝日に映える「京王高尾山口駅」の改札口に参集したのは1?名。このうち、我々の友人・知人・家族などが半数近く混在。
本日は、今年最後の山行で忘年会を兼ねている。高尾山から城山まで行き、そこで昼食をとってから下界で酒宴となるのがお決まりのパターン。
自己紹介と員数確認後、9時半頃から登り始める。業務関係の情報交歓の中、汗も交えながら歩程を進める。
高尾山を経、城山頂上に着いたのがちょうど12時ころ。トロミが強い250円の「なめこ汁」をすすりながら麦焼酎をたしなむ。お湯を注いだら
13時過ぎ、相模湖方面に向けて下り始める。
下界に下り終えて畑中をたどる。振り返ってみたら、そこには日本の原風景があった。真っ赤に色づいた山ふところに、お寺と人家と子供たちの遊ぶ姿。魅入られてカメラを向ける仲間の2〜3人。山にはこの世の穢れに染まらぬ、永久に変わらない美しさがある。
「天下茶屋」という休み処で忘年会となる。忘年会といってもいつもの酒宴に回顧部分を付け足したもの。酔いを生きがいの一つにしている者にとってはありがたい名称。
今年も事故がなく無事に終えました。もちろん、山登りも一つの生きがいです。来年2008年もお世話になります。
春浅し はだらまだらの 梅の花
(平成20年3月号掲載)
2月9日の土曜日、「池上七福神」巡りに善男善女14名(男6名、女8名)が池上駅に参集した。当会において毎年2月は「七福神めぐり」と決まっている。今まで10ヶ所以上は巡り終え、それぞれ懐かしい思い出を残してきた。
から松の 群れにかげ染む 山桜
(本会行事平成20年5月5日、甲武信ヶ岳からの下りにて)
ヒグラシの 声木々に満つ 山に満つ
(平成20年8月号掲載)
7月5日(土)、奥多摩湖の北に位置する「鷹ノ巣山(1737m)」に登攀。この山は、雲取山から東に派生する稜線上にある。
くもの糸 風に流るる 山野枯る
(単独行平成20年11月11日小菅山―狩倉山)
野末まで 山を辿りて 春を待つ
(平成21年2月号掲載)
毎年1月は、高尾山の頂上そばにある「やまびこ茶屋」で新年会と決まっている。その席で、菊地登山クラブ(東行会)会長から新年の挨拶、それに続いて昨年の参加状況による賞状授与、そして酒宴へ・・と移るのはいつものお決まりパターン。
1月10日(土曜日)10時に高尾山口に集合したのは19名。天気は晴れで足も軽く?沢沿いのビワ滝コースを遡上し頂上を目指す。足元には3〜4センチの雪。暖冬のせいか凍っていなかった。
乾杯前に賞状授与が行われ、皆勤賞に庄司さん、精勤賞に菊地、関上、川上、西村、峰岸の諸氏、感謝状を川上さんがそれぞれ受賞した。庄司さんは介護福祉士の仕事をなされており、忙しい合間を縫っての受賞は天晴れ! 川上さんは、毎回朝の集合時に、前回行事の写真を皆に配られている不断の善意に対して、皆からの感謝を込めた思いを受けての受賞。そのあと、重鎮、松任さんによる乾杯音頭で本年の幕開け酒宴となる。
帰路は、いくつかの寺社に、公私にわたる、行く末の無事を願って参拝祈念した。
下山後多摩センター駅近くの天然温泉「極楽湯」の湯船に沈没。それから国分寺駅近くのスナックに場所を移しての沈没まで、底抜けに付き合った輩が3人いたとかでチョン・・。(
陽をかざし 輝く若葉に しくはなし
芽吹き樹や 狭間に横たふ 青い山
(他会参加 21年4月19日(上野原)ー坪山)
一面に 舞い降る花と 白い犬
(平成21年4月26日近在の山林で)
会越嶺 空に溶けおり 重畳と
(単独行平成21年4月29日浅草岳山頂にて)
脳みそや からだ留めむ まめ桜
(平成21年6月号掲載)
風薫る5月の山に緑を求めて、1泊2日で伊豆の「天城山」に登らんと、15名(男10名、女5名)が参集した。天城山とは万二郎岳・万三郎岳・遠笠山等を総称して呼んでいる。9年前に実施したリバイバル企画だ。
話はそれるが、本年3月から<山の行事ごと、参加者のみ>の傷害保険に加入した。保険料は日帰り登山1人100円、1拍登山300円。ポリシーを備え基盤整備をした登山クラブ。さらに前進と言えるだろう。
5月2日(土)、小田原から三島経由で修善寺駅に降り立った。ここで総勢15人が出揃う。駅前のそば屋で腹ごしらえをし、一日目のコースとしてタクシー
に分乗して「浄蓮の滝」見物に向かう。滝は観光地でもありかなりの人出で賑わっていた。そこから、1時間ほど歩いて今晩の宿「しきや」に着く。ちなみに隣
の宿は、伊豆の踊り子が泊まった旅籠とか。
夕食後の宴会ではカラオケなしの地声で、懐メロ等が出るも、歌集が無いので声も途絶えがち。だが、その中でひときわ目立ったのが八王子支部の峯岸さん。 独特の美声!?でみんなから喝采を浴び、ご満足の様子だった。
二日目の5月3日(日)朝 7時、宿の車とタクシーに分乗し、林道ルートで標高1000mあたりまで運んでもらう。 薄日が射す中、若葉の遊歩道を昭和天皇も行幸された「八丁池」に
向かった。池はたっぷりと水をたたえていた。池といえども湖の如くでかい。天然記念物「モリアオガエル」が棲息する池畔は落ち着いた草原の佇まい。のんび り昼寝でもしたい雰囲気。池にはトンボの幼虫ヤゴの姿も。
今、この天城山一帯は、
石楠花の花盛り。その合間を縫って「豆桜」が自生し、直径1センチ強の小さく可憐な花をつけている。花びらは5枚で、内側中心に尖った赤い5片の花芯を付 けた実に愛らしい姿。いつまでも覚えていたい・・先々まで。この姿の記憶に陰りがないように・・。
「万三郎 岳」(1406m)で昼食をとってから「万二郎岳」(1300m)を経てゴルフ場のバス停まで下る。
途中、菊地会長が、「浄蓮の滝」で買ったおみやげの 「まんじゅう」をどこかに落とされた。下る道すがら嘆かれることしきり。ところが一転、急ぎ下ってきた登山者に問い合わせたところ、拾って持っているとの
ことで一件落着。菊地会長大安堵で、「まんじゅう」ともども大喜び。よかった。よかった。
バスでJR伊東駅へ。伊東線に乗車し途中小田原駅で下車して、有志9人で無事下山の祝杯となる。呑み助は、口実自在で酒にありつける。ありがてー。(八王子支部 向坂元志)
「次回も参加しましょう!」の音頭の声。今回行事もこれにてシャシャンがシャン。
高速道 一点蝶の 渡るなり
(個人山行平成21年5月9日大和・二上山に向かう車中にて)
余生あり 愛しコスモス 山の並み
(平成21年10月号掲載)
9月12日(土)、西武秩父線の飯能にある「天覧山」に登らんと、駅改札に参集したのは男女混成で10名。
彼の方に写真を撮ってもらったあと、我々は「多峯主山」(とうのすやま271m)に向かう。ひと下りしたところで常盤平という平坦な湿地帯に出た。5分ほどで登りとなるが、この登り坂を「見返り坂」と言う。東国に逃れた義経を追ってこの地までやって来た母・常盤御前が、あまりの景色の良さに、後を振り返りながら登ったことから命名されたとのこと。――
まことなら、ロマンだな―。
多峯主山の頂で食事となる。いつものように食材の交換も交えて。
山頂を後にして下り、入間川沿いの名栗街道に出る。ここからバスに乗り、日帰り温泉「さわらびの湯」へと向かう。
湯を出てからの酒盛りの中心話題は、先月の北岳登山。
「厳しかったね。」「天気にもギリギリ恵まれた上、アクシデントもクリアできてよかったね」が、話題の中心。
温泉から出てバス停に向かう途中、かたわらのコスモスと、雲のかかった山並がことさら目に沁みた。そう感じたのは、年齢からしても、「いつまでも見ることができない」との思いが絡んだからだ。
来月の予定は、「金時山」。またまたお山にお世話になります。
山さん!いつまでも、「すこし愛して、なが−く愛して」・・・喝!(八王子支部 向坂元志)
大気凍つ 樹の間もれ日の 舞うきらら
(単独行平成22年1月2日八ヶ岳山中にて)
平成22年
1月高尾山
たなごころ 千歳の春見む 火山礫
(平成22 年6月号掲載)
平成22年5月1日(土)21時、300キロ南の八丈島の山に向かわんと、男7女4名が竹島桟橋に集結した。目的の山は、854mの「八丈富士」だ。
行きは船旅、帰りは飛行機利用の1泊2日の旅。船は22時20分発、翌朝9時20分に着くという自由時間いっぱいのゆとり旅。指定席は取れなかったので、甲板の一角または、船内の床面で過ごした。それでも寒さは、貸し毛布のおかげでなんとかしのげた。
早速、持ち込んだアルコールで酒宴開始。菊地登山クラブ会長と私の焼酎、それに峰岸さんの日本酒で乾杯! 程よい潮風と波の音が、酒の酔いに彩りを添えた。
翌2日(日)、9時20分に八丈島の底土港に到着し、多少睡眠不足のままタクシーにて八丈富士登山口まで行き登攀開始。
晴れて暑い中、やっとこさ火口縁の一角に辿り着いた。そこには中央火口丘を中に擁した巨大な火口が待っていた。
お鉢廻りは、小1時間かけて一巡したが360度の展望のもと、眼下には、街なかにある八丈島空港とそこに着陸する航空機、そして海を隔てた八丈小島やそこに行きかう小船の姿の順に眺めが変わり、気宇壮大な気分となりすこぶる爽快。ヤッホーの声も乱れ飛ぶ。
途中、誰も触れたことのないと思われる火口縁ぎりぎりにあった赤い火山礫を手に取ってみた。そのざらざらした感触が手の平に伝わったとき、生成されてから今までの長い時の流れを全身に感じた。
山を下り、登山口から10分ほどのところにある「ふれあい牧場」に寄ってから、本日の泊まりどころの民宿「船見荘」へ。夕食は、ほかの客もいる食堂でとったが、我らが際立って賑やかだった。ご迷惑だったかな・・?
3日(月)は、温泉と名所旧跡めぐりの島内観光に費やした。
バスにて、最奥の末吉地区にある「みはらしの湯」へと向かう。
「みはらしの湯」から下って20〜30分先の海岸に無料の「洞輪沢温泉」があるとのことなので、5人ほどで向かったが現場に着いたら「月曜休み」とあり、がっくり。地元の人の言葉に従い、海中に沸くという「汐間温泉」に向かう。それとおぼしきところに着き、浅瀬に手を入れてみたがほんの一部が温水なので無理と分かり断念。「みはらしの湯」に戻り、急いで“カラスの行水”をし、徒労を慰めた。
15時20分発の航空機に乗り、50分飛行して羽田着。
打ち上げは、一部有志にて東京駅構内の中華料理店で行い、無事にこなした満足感を胸に散会した。(
むかし道 遠いおもかげ 曼珠沙華
(平成22年11月号掲載)
10月2日(土)、奥多摩駅に参集したのは善男善女の16名。この駅から歩き始めて奥多摩湖に至る上り道に、歩程10キロの遊歩道「奥多摩むかし道」がある。
昔は、この「奥多摩むかし道」をたどり、湖に沈んだ小河内村を経て西進し、大菩薩峠を越えて南下して甲州へ通じる往還道であって「甲州裏街道」と呼ばれていたとか。この遊歩道は、往時の街道の面影があるとのことで、近年人気があるコースだ。
駅から国道をたどると、まもなく案内板が見えてきて「奥多摩むかし道」は右に分岐する。
道すがら、ささやかながら「馬頭尊」や「道祖神」、それに神社と不動尊、そして「耳神様」(耳病医がわり)、「むし歯地蔵尊」(歯科医がわり)に、「馬の水のみ場」・「縁結び地蔵尊」などが現れ、昔日の生活と往来の様子が偲ばれる・・・。道沿いには廃屋も交えた質素な民家が点々。そのたたずまいも又、おもむき深い。
所々にある「馬頭尊」は、谷底へ落ちて死んだ数多くの馬を供養するため造立とのこと。当時は険しい細い道だったので、このような災いをもたらした。
途中、腰を下ろして休んだところに艶やかな彼岸花。個人的なことだが、ふと、昔の思い出がよみがえる・・・。いただいた飴がうまかった。
集落を抜けて上りかげんに行ったところから、小河内ダムが見えてきた。そのまま登り気味に行ったところに奥多摩湖の展望ポイントがあり、湖面の傍らに爆音をとどろかせたヘリコプターが滞留していた。危難に遭遇した人がいたらしい。
このあたりから下りに入り、水根バス停を経て湖畔に出た。歩きはここまでで、あとはバスで奥多摩駅へ。
最後はお決まりの一浴と、酒と歓談のお楽しみコース。
思うに――山歩きは、身体・心・頭脳、それぞれに好影響をもたらします。よって、長生きの良薬となりご利益いっぱいです。ぜひ!みなさんも奮って参加し、受け取ってください。(八王子支部 向坂元志)
木枯らし葉 空を埋め天 おおいたり
山ひしゃぎ 天空の間に 冬のぞく
(西上州一人山旅22年11月9日〜11日:シラケ山 烏帽子岳 天丸山 大ナゲシ 赤岩岳)
(平成23 年3月号掲載)
本年は「浅草七福神」がターゲット。
2月5日(土)、雷門前に27名集合。福徳・福運を求めて〜♪〜と、40〜80歳代の色とりどりの善男善女が参集。
最初に寄ったのは浅草寺ならぬ吾妻橋のたもと。今建設中の「東京スカイツリー」の眺望スポットだ。
そこから隅田川沿いに北上し「待乳山聖天」へ。その後は、「今戸神社」ー「橋場不動尊」ー「石浜神社」ー「吉原神社」ー「鷲神社」と巡り昼食となる。途中、平賀源内の墓所あり。
ご当地に在住する大鐘先生のご案内で、有志は近くのウナギ屋へ。
ここで仕入れた故事話として―――――
《今のように土用にウナギを食べる習慣が一般化したきっかけは、平賀源内が、近所のウナギ屋から、「夏場にウナギが売れないので何とかできないか」と相談を受けたので、「本日、土用丑の日」と書いた張り紙を張り出したところ、大繁盛したのが始まりという》
食後、「矢先神社」−「浅草寺」と巡り、詣で終わる。
その後に入った銭湯が、まさに特筆もの!
「蛇骨湯」と称し、江戸時代から延々と当所で営んできたとのこと。野天風呂を含め、すべての浴槽が正真正銘の温泉湯。長屋の熊つぁんや、志士、それに風雅人や芸人が沈んだであろう湯に浸る。身を沈めて、思いを巡らす心地たるや、極上もの!
菊地登山クラブ会長もすこぶるお気に入りのご様子で、再訪願望を吹聴していた。
風呂上りは、お決まりの「酒どころ」に6名が沈没。7ヶ所参拝したのだから「7倍ご利益」を期待して、乾杯!! (八王子支部 向坂元志)
万緑の どまんなかに 蝶一点
(平成23年6月26日、新ハイの行事で日原奥の中段歩道の遡行)
放射線 うけてとどめむ チングルマ
(平成23年8月6日、東行会行事で乗鞍岳)
行く夏や 名残の雨か 露天風呂
(平成23年10月号掲載)
台風12号が本州を縦断中に、武蔵五日市駅の改札口に参集したのは6名。
下車した時には、ほかにも山姿の者を見かけたが、バス停においては我々だけ。はたから見たら、さぞや山キチに見えただろう。ところがギッチョン、心はほかにあり。
9月3日(土)、五日市奥の「浅間嶺」を辿らんと改札を出たら雨、雨。
即予定を変更し、バスで15分ほどにある「瀬音の湯」に向かう。もち、入湯と酒盛りがお目当て。
雨の中タオルを頭に、はるか眼下の激流の音を聞きながら湯にしたる・・が、私の心は完全にくつろいでいない。鬱がある。それは、これから福島原発事故の放射線が、長年月にわたり日本人に甚大な被害を与えるだろうとの思いがあるからだ。
風呂上りは、離れの休み処でくつろいだ。ここでも我々が一番騒がしい。ほかのお客さん勘弁ね!
四国を縦断中の台風の雨が、緑の庭を向こうにして、廂から激しく落ちる風情を眺めながら、酔い食い、だべった。
思えば、参加してから今まで多くの仲間との触れ合いがあり、現在の仲間がいる。思い出は多く深く懐かしい。
席上、「過去から今までの山行記事を収録して冊子にすることはそれなりの価値がある」との話が出た。検討すべき貴重な意見だと私は思う。
ちなみに、参加者は、菊地、阿部、峰岸、西村、安川、そして私の6名でした。
ご苦労様でした。いつまでも一緒にね。(
もみじ葉や いのちの際の 血ぞ燃ゆる
(他会参加 平成23年11月3日(甲斐大和ー米沢山ーお坊山ー笹子))
白銀の 富士に映えるよ 山ガール
(平成24年1月号掲載)
12月10日(土)、まぶしくて輝くばかりの快晴のもと、高尾山口駅前に12名参集。
吐く息が白く凍えるような朝だが、深い紺碧の空が期待を膨らませてくれた。その期待とは、澄んだ空気を通して、富士山を初めとした山々、そして遠い街並みが鮮やかに眼中に飛び込んでくるであろうという思いだ。
「稲荷山コース」を辿り始めると間もなく小さな祠のあるお稲荷さんに着く。ここで体ほぐしの体操をした。指導がてら音頭をとってくださる方はいつもながらの木村先生。なかなか堂に入ったご指揮ぶりで様になってます〜〜。
途中、東屋がある展望箇所から案の定、遠く筑波山やスカイツリーが指呼の間に。
山頂へ向かう急な階段を避け、城山へと向かう捲き道を選択。途中、城山頂上の休み処の「なめこ汁」(250円)が頭に浮かぶ。これがまた疲れ切って冷えた身体に効くんだな〜〜〜これが。
道すがら、木々の間から、雪をかぶった富士の高嶺がくっきりと。行き交う山ガールともども映え競ってますな――!
城山の頂上にて「なめこ汁」を各自とって昼食。天候に恵まれたせいかかなり混みあっていた
城山から下り始めたあたりは山の北面で名残のはだら雪がそこかしこ。
小仏峠バス停には同好の士が長蛇の列。こんなに利用客が多いということは、山間を縫うルートの零細バス会社にとって山登りのお客さんは神様みたいなもんだろう。昨今の登山ブームで、我々がその一翼を担っていると思うと、ちとうれしい。
高尾駅前の蕎麦屋で忘年会。いつもながらの話題沸騰で盛り上がりました。
来年も盛り上がったまんま行きましょう。
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いわひばり 春光雪壁 欣と舞う
(単独行平成24年4月29日日光白根山頂上直下にて)
山の辺の 風薫る大和三山
(平成24年5月10日山の辺の道を一人行く)
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炎天下 しかも熱湯 共同湯
(平成24年9月号掲載)
この夏の山行は、おおるりグループの超格安のパッケージ旅行を利用した。目的地は草津白根山。一泊二食付で夕食時飲み放題、バス代込で、6500円也という超特価。
8月4日(土)、新宿住友ビル裏の駐車場から7時発のバスに男性7人、女性5人が乗り込む。朝早いのが玉に傷。草津温泉の「ホテルニュー紅葉」に着いたのがお昼ころ。
夕飯の18時までが空き時間なので自由時間はあまりない。そのため、残念ながら一
般のハイキングコースは選べなかった。不要な荷物を預けて、草津白根山のお釜(火口湖)くらいは見られるだろうと路線バスにて山の高みの「草津火山」バス停へ。
本来なら火口の縁まで直登コースを辿るはずなのだが、有毒火山ガスの影響で遠回りするコースに変更になったため、神秘的なエメラルドグリーンの火口湖を臨む展望個所が遠くなってしまった。やむをえまい。
まだ時間的に余裕があるため下ったあと、弓池に接した湿地帯に敷かれた木道を辿って一回りした。湿地帯は小規模ながら尾瀬や戦場ヶ原をしのばせる植生で、庄司さんご指摘の「ワタスゲの花」が印象的だった。
夕食は、バイキング形式で飲み放題の生ビールと酒類付き。その後は2時間のカラオケタイムに移行。どんちゃん騒ぎで、仲間の中にはジェスチャーを交えて歌いまくる姫もおった。アルコールも加勢して。
翌日、朝食前に、ホテル裏から河原に下り500円の「西(さい)の河原大露天風呂」に入る。7時開店でプール並みの巨大露天風呂だった。湯船を共にできるとともに、遊郭話も伺うことができて十分に心身とも温もった。
朝食後、草津の町中に繰り出し、有名な観光スポットの「湯畑」を見学し、饅頭屋で土産を購入後一旦ホテルに戻る。ホテル発バス12時過ぎにはまだ時間があるので、再度有志で「西の河原」散策に出向く。
中心街に向かう河原を下ると「片岡鶴太郎美術館」があった。そこで一休みしたあと、近くにある無料の共同浴場「凪(なぎ)の湯」に沈没。
そこは目立たない路地の奥にちょこんとあった。左右に男女の入口がおかれたこじんまりとした造り。狭い階段をちょこっと降りると、小さな脱衣場と小さな湯船。
最初に入ろうとした熊井先生の悲鳴! あっち――っ! の叫び。 飛び出る。
まさに60度近くの熱湯なり(風呂では熱湯)。水をじゃんじゃん入れながら、ジャブンと浸かって飛び出、 々 を繰り返しながら、熱い上層部分を外に追い出す。そのうちやっとこさ、ぬるくなったので男5人ぎゅーぎゅーで浸かる。
となりの女湯では、今回初参加の関根先生とその仲間の二人が苦戦苦闘後に我々同様入湯できたようだ。「いい湯ですーっ」の声あり。
歴史ある手作り的共同浴場の不自由の良さと、レトロ感を味わうことができて、よかったー! (
益荒男の 操尽くすや 野辺の柿
(平成24年12月号掲載)
今月は、いつもの“山登り”ではなく、「百草園・歴史散策」というウォ―キングコース。ルートは、百草園駅から―石田寺(せきでんじ)―百草園―高幡不動―国立温泉。
11月3日(土)の9時に駅参集。男女混成15名でまず土方歳三の墓所である石田寺へと向かう。生家近くの寺までの道筋に、柿木あり。今を盛りにその色郷愁を誘う。
一介の土着農民の子として生を受け、志を抱いて旅立った歳三の墓もこの寺にある。
夢果たせずとも変節せず、最後まで忠節を全うした美しさ。
多分、彼は活動の途中で新しい時代の流れや、抱いてきた大義名分への疑問を感じたであろう?・・が、行動は最後まで曲げなかった。その心中たるや如何に!
石田寺を後にして百草園へ。旧街道の道すがらにも柿たわわ。ここにも美しさ。
次に、去年11月に開店した「国立温泉
湯楽(ゆら)の里」へ。
高幡不動駅からモノレールに乗り、次の駅から徒歩10分強で着。
野天風呂からの眺めは、浅川の河川敷に面しているため、空いっぱいの爽快さ。これからは、何度かお世話になるだろう。
帰りは往路を戻る。
石田大橋からの眺めは、とびっきりの360度。灯りを点しはじめた家々を足下に、はるか大山〜高尾山〜三頭山・ 大岳山の山並みが連なる。片や夕焼け雲も展開し、酔っ払った心さまよう。
さようなら。又会いましょう。
新年会 茶屋に響くよ 皆勤賞!
(平成25年2月号掲載)
1月12日(土)10時、京王高尾山口駅に善男善女20名が参集で、初参加は北支部の井ノ瀬先生。(20名中行政書士は16名で4名は家族や知人)
毎年1月行事は、高尾山頂上にある「やまびこ茶屋」で新年会(1人3千円)と決まっている。
本日の登行ルートは、「琵琶滝」経由の沢沿いコース。
ちょうどいいタイミングで、不動堂わきの琵琶滝にこれから打たれんとする白装束の男性が一人。音声高らかに、呪文を唱えながら水をかぶり身を清めていた。その奥には一部氷化した滝。これから滝下に移り身を打たれるのだろうが、時間を取られるので退散した。
12時過ぎに「やまびこ茶屋」に着。店主お出迎えのもと、確保済みの予約席に着席し、新年会行事がはじまり、はじまり〜〜〜。
今年も無事にこなした安堵とともに行事進行し、菊地登山クラブ代表による手ずからの表彰状授与の場となる。
菊地先生は、身体もでかいが声もでかい。受賞者を前にして読み上げる「皆勤賞!」の声は、茶屋一杯に響き渡った。ほかのお客さん無視・不在の感で勘弁ね!
吾妻山 せせらぎ公園源流の 随所に沸く湯
防人の 通ひし道や 夏来る
(北海道一人山旅)平成29年9月7日〜10月18日 大雪山、暑寒別岳、利尻山、残りは後で記入
ここの間の山行記録を間違えて消しちゃった!!...
ここ
令和3年元旦 鍋割山泊〜塔が岳
防人の 通ひし道や 夏来る
(元年7月号掲載)令和元年6月8日鎌倉古道
6月8日(土)、いわゆる「鎌倉街道」として有名な主要三街道のほかにも、鎌倉街道は何本かあります。そのうち二本の街道を辿りました。この街道の一画には9・10世紀の須恵器を生産していたそうで、まさに古道ですね。それに人と会わない古道。横浜線の橋本駅となりの相原駅に7人集合。駅前からバス乗車「相原十字路」で下車し一本目の鎌倉古道に入る。途中、地元の人数人が伐採作業をしていたが、そのうちの一人が「この道は往時の小田原攻めの際に通った道だ」と述べていたので、武田・秀吉軍通過は担保された。八王子、町田の市境を東にたどり、二本目の鎌倉街道を北上中に、軍靴の音が聞こえた―!(ワラジか裸足じゃー聞こえまいw)。最後は有志数人で八王子南口にある郷愁誘う風情ある飲み屋で、かんぱーーーーい(八王子支部 向坂元志)
吾妻山 北斎お出まし 梅雨空に
(元年8月号掲載)7月6日吾妻山公園〜せせらぎ公園
7月6日(土)、東海道線の「二宮駅」に、たった4人参集。多分、雨天予報をおもんばかったのだろう。・・・が、当日は曇天が支配した“外歩き日和”だった。二宮駅北口から町役場前までほんの少し。
そこから吾妻山公園の頂上目指して長い階段を登る。頂上直下にある「吾妻神社」境内には、「二宮地区にある“梅沢”地名は、流れ着いた弟橘姫命の櫛を埋めた“埋沢”の転称」との能書きあり。頂上に着くと眼前には雲間に富士の全景。「この頂から葛飾北斎が描いたのが、かの有名な「富嶽三十六景」の一です」と、現場にいた地元の人からの教示あり。次に「せせらぎ公園」に向かう。南北に流れる川沿いを北上し到着し昼食。池の中の蓮の花の透き通るような艶やかさ。駅に戻る南下途中、横穴式古墳群等を経由して酒場に3人投宿?今回も酔っ払い電車客でした。(八王子支部 向坂元志)
夏の川 随所に沸く湯 神ながら
(元年9月号掲載)8月3〜4日:鬼怒川源流
8月3日(土)、過去、利用稀な「浅草駅」発8:00の東武線に乗車し、鬼怒川温泉駅に乗車。会津方面行き西八王子駅乗り換えて川治温泉駅下車。タクシーにて鬼怒川源流を辿りの手前、加仁湯温泉下車。そこから徒歩15分ほどで目的地の「日光澤温泉」着。早めに到着してから「オソロシノ滝」へ行く予定だったが、露天風呂に入ってから部屋に戻ったらお布団あり。横になったら歩く気は失せ爆睡・・・・おいおい!ww。翌日は調子がすぐれない菊地先生だけ宿の車で帰ることになり、我々は下り気味の峩々たる渓谷沿いコースを「女夫渕(めおとぶち)バス停」まで・・。この鬼怒川最奥の沢沿いには奇しくも温泉湧出が多々点在。昔は、洪水・氾濫で名を馳せた鬼怒川も源流は温泉点在天国。菊地先生とともに路線バスにて鬼怒川温泉駅へ。そこから新宿行き特急にて酒飲みながら無事帰還。(八王子支部 向坂元志)
炎天下 秋気は何処 社寺詣
元年11月号掲載「八国山―荒幡の富士」
9月7日(土)、東村山駅に6人参集。ここから北方にある下山口駅までの地域は旧鎌倉街道の存する地域で、古社古寺も多く史跡にも富んでいるところ。途中、新田義貞と鎌倉幕府軍か衝突した古戦場を経由し、最後は「荒幡の富士」119.1m(人が造作)を登り、下山口駅へ。勝利した義貞が白旗を立てたといわれる「将軍塚」、戦勝祈願した鳩峯八幡神社(兜をかけた松(孫の子松)あり)を経、下山口駅へ。古くからの多くの社寺仏閣や板碑それに鎌倉街道があるので江戸よりも早く拓けていた地域だなーーとの感あり。秋に入ったとはいえ道中暑かった々!。最後は国分寺駅で下車し有志三人でビールで乾杯。(八王子支部 向坂元志)
秋の山 実朝居るよ 初島や
元年12月号掲載「十国峠〜伊豆山神社」
11月2日(土)、熱海駅に参集したのはたったの3名。理由は、先月の台風による道路崩壊でバスが目的地まで行かず、かつ山中ルート中の崩壊が予想されたため、昨日私は仲間に中止の連絡をしたためだ。熱海駅に降り立つと、連絡漏れの人が来ていたので出かけてきてよかった!ほっ。ところで本日のルートは、予定のバス停より手前の十石峠登山口からのコースで、そこから東に進み伊豆山神社までのハイキング。眼下には熱海の市街地と、初島を浮かべた相模湾を終始眺めながらのコースで途中、実朝が箱根越えしたとき眼下の初島を詠んだ有名な歌碑が刻まれた石碑あり。東進し、南下するコースで伊豆山神社まで難儀したが無事参拝。頼朝と政子の恋の舞台として有名。バス利用で無事熱海駅まで帰還。途中、小田原駅下車して乾杯。(八王子支部 向坂元志)
武人ら 馬のいななき 紅葉する
2年1月号掲載「石砕山」
山行記・・・12月7日(土)、藤野駅南方に存する石砕(ざれ)山(ギフチョウ(通称:春の女神)の生息地として有名―4月は登山者で賑わう)に登らんと駅前に集合したのは5人(男3女2)。当日の天気は東京では雨だったがこちらは展望のきく曇りだった。登山口までバス便が無いのでタクシーにて篠原登山口まで。この地域も含め、千年前から名馬の産地として名を馳せ、聖徳太子の黒駒や武田の騎馬隊として貢献したそうです。そういえば、あたり一帯に「牧」がつく地名が処々。その一角がゴルフ場に変貌。紅葉にも恵まれ寒かったが頂上で昼食。車道へ出るまで人には合わなかった。あとは「やまなみ温泉」まで40分。きつかった。・・・が、いい気分で酔った。(八王子支部 向坂元志)
初日の出 山々富士も 大菩薩
大菩薩嶺:(一人山旅:大晦日〜2年元旦)
新コロナ 詣で止め成り 七福神
2月8日(土)行事の「雑司ヶ谷七福神」行事は、想定される参加者全員に
2月3日に下記文言をファクスして中止にしました。・・記・・→「大変 々 すいません。今度の土曜日の{七福神巡り}は中止にします。 私は「新型コロナアレルギー」ですからー。中国正月に日本入国34万人。 内、武漢人1700人→ 日本人に感染し、今潜伏中。 このままいくと4〜5月ころが日本の花盛りだそうです。 様子をみてみましょう。」(八王子支部 向坂元志)
閉じこも.る 酒とナツメロ 春ぞ今
(2年4月某日、窓越しのお月さん)